織田信長が号泣した猛将・森可成の生涯!「攻めの三左」の真実
戦国最強の覇者として知られる織田信長が、家臣の戦死に際して人目を憚らず涙を流し、その仇を討つべく比叡山焼き討ちを決断した契機となった武将が存在します。その男こそ、「攻めの三左」の異名で恐れられた槍の名手・森可成(もり よしなり)です。
本能寺の変で信長に殉じた美小姓・森蘭丸や、「鬼武蔵」と恐れられた猛将・森長可の父親としても知られる森可成ですが、彼自身が残した武功や壮絶な散り際は、戦国史屈指のドラマ性を誇ります。信長が最も信頼した創業期の名将の生涯と、宇佐山城の戦いにおける討死の真相に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:森可成は十文字槍を自在に操る「槍の名手」であり、織田軍屈指の突破力を誇る先鋒として「攻めの三左」と称えられた。
- 要点2:1570年の「宇佐山城の戦い」において浅井・朝倉連合軍3万をわずか千余の兵で食い止め、信長の危機を救うため壮烈な討死を遂げた。
- 要点3:その死を深く悲しんだ信長は比叡山焼き討ちを断行し、遺された森蘭丸・長可兄弟をはじめとする森家を手厚く重用し続けた。
【猛将の原点】「攻めの三左」と呼ばれた槍の名手・森可成とは何者か?
森可成は1523年、美濃国(現在の岐阜県)の土豪・森可行の長男として生を受けました。通称は「三左衛門」。森家は清和源氏の流れを汲む名門・源義隆の末裔を称し、代々武勇に優れた家柄でした。
若き日の可成は美濃の斎藤道三に仕えていましたが、やがて尾張の織田信長に見出され、その臣下となります。信長家中における可成の評価を決定づけたのが、無類の強さを誇る「十文字槍」の腕前でした。乱戦の最前線に自ら飛び込み、敵陣を切り裂く圧倒的な突破力から、敵味方を問わず「攻めの三左」と畏怖された武功の逸話は数多く残されています。
柴田勝家が「かかれ柴田」と呼ばれたのと並び、可成は信長初期の軍事行動において常に主力を担い、尾張統一戦や桶狭間の戦い、美濃攻略戦などで獅子奮迅の活躍を見せました。
【美濃攻略の立役者】金山城主への抜擢と信長が寄せた絶大な信頼
1565年、信長が美濃の中濃地方へ勢力を伸ばすと、可成はその功績を認められ、東濃の要衝である金山城(兼山城)の城主に任じられました。信長が美濃攻略の橋頭堡として極めて重要視していた拠点を任されたことからも、可成への信頼の厚さがうかがえます。
信長上洛戦においても可成の武名は轟き、六角氏との戦いや観音寺城の戦いでも先鋒を務めて大いに戦功を挙げました。信長は軍事面だけでなく、京都の治安維持や寺社勢力との折衝役といった政務面でも可成を重用しており、単なる猪突猛進の猛将ではなく、知勇兼備の重臣として信長の覇業を支え続けました。
【決死の防衛戦】宇佐山城の戦いと浅井朝倉連合軍を迎え撃った討死の経緯
森可成の武士としての頂点であり、悲壮な最期となったのが1570年の「宇佐山城の戦い」です。当時、信長は三好三人衆を討つため摂津(大阪)の野田・福島へ出陣中でした。この隙を突く形で、北から浅井長政・朝倉義景の連合軍約3万が突如として南下し、京都の信長の背後を脅かす事態が発生します。
京都と近江の連絡路を押さえる戦略拠点・宇佐山城を守備していたのが森可成でした。城内にいた兵力は、信長の弟・織田信治の部隊を合わせてもわずか1,000〜1,500人程度。圧倒的劣勢の中、可成は籠城策に閉じこもるだけでなく、果敢に城から討って出て下坂本付近で連合軍の進軍を阻み続けました。
連日にわたる激戦の中、可成は朝倉方の名のある武将を自ら討ち取るなど奮戦を重ねましたが、連合軍に呼応した比叡山延暦寺の僧兵部隊が背後から急襲。包囲された可成は多勢に無勢の中で全身に傷を負い、ついに壮烈な討死を遂げました。享年48。しかし、この可成の命がけの足止めによって連合軍の京都直撃は阻止され、信長本隊が取って返す時間を稼ぐことに成功したのです。
【号泣した織田信長】なぜ信長は森可成の最期をこれほど惜しんだのか?
可成討死の凶報が届いた際、冷徹なリアリストとして知られる織田信長が人目も憚らず号泣したと伝えられています。信長にとって可成は、尾張の小大名時代から苦楽を共にし、どんな困難な戦場でも先頭に立って命を預けてくれたかけがえのない股肱の臣でした。
信長の怒りと哀惜の情は凄まじく、浅井・朝倉軍に味方して可成を討ち取る要因となった比叡山延暦寺に対し、翌1571年に徹底的な焼き討ちを実行した背景には、可成の仇討ちという強い私情が含まれていたと指摘されています。
さらに信長は、可成亡き後の森家に対して破格の厚遇を与えました。金山城の家督継承を速やかに承認しただけでなく、可成の遺児たちを自身の側近として召し抱え、手厚く庇護していくことになります。
【華麗なる家系図】森蘭丸・森長可ら息子たちへ受け継がれた血脈
森可成の残した血脈は、戦国時代後期の歴史において鮮烈な足跡を残しました。森家の家系図を振り返ると、父の類まれな武勇と忠誠心が息子たちに色濃く受け継がれていたことがよくわかります。
長男の森可隆は、父に先立ち越前手筒山城の戦いで若くして討死。可成の死後は次男の森長可が家督を継ぎました。長可は父譲りの武勇を発揮して「鬼武蔵」と恐れられ、織田軍の武田征伐などで獅子奮迅の活躍を見せました(後に小牧・長久手の戦いで戦死)。
そして三男が、信長の最側近として本能寺の変で運命を共にした森蘭丸(長定)です。弟の坊丸、力丸らも信長に近侍し、本能寺で主君を守って討死しました。信長がこれほどまでに森兄弟を愛し信頼したのは、彼らの才覚もさることながら、父・可成への尽きせぬ感謝と追慕があったからにほかなりません。
【激動の歴史を超えて】森可成の子孫は現在どう受け継がれているのか?
多くの男子が戦乱の中で散っていった森家ですが、その血筋は途絶えることなく近世・近代を生き抜きました。家督を継いだのは六男の森忠政です。忠政は関ヶ原の戦いなどを経て徳川家康に仕え、美作国(岡山県)津山藩18万6,000石の初代藩主となりました。
津山藩森家は名城として名高い津山城を築城するなど繁栄を極めました。その後、森家は播磨赤穂藩や三日月藩などの大名家として存続し、明治維新後は華族(子爵)に列せられました。
現在でも森可成の子孫は歴史研究や文化活動、旧領地との交流などを通じてその誇りある系譜を守り続けており、岐阜県可児市(旧金山城下)や岡山県津山市では今なお郷土の英雄として敬愛されています。
【森可成】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:森可成と森蘭丸はどのような関係ですか?
A1:森可成は森蘭丸の実の父親です。蘭丸は可成の三男として生まれました。可成が宇佐山城で戦死した当時、蘭丸はまだ幼少でしたが、成長後に信長の側近として登用され、本能寺の変で信長とともに討死しました。
Q2:なぜ「攻めの三左」と呼ばれていたのですか?
A2:可成の通称が「三左衛門」であり、十文字槍を用いた突撃力と、合戦の最前線で敵陣を突き崩す圧倒的な先鋒としての武功から、「攻めの三左」という異名で武名をとどろかせました。
Q3:森可成のお墓や供養塔はどこにありますか?
A3:滋賀県大津市の坂本にある聖衆来迎寺に森可成の墓所(供養塔)が残されているほか、森家の菩提寺である岐阜県可児市兼山の大仙寺にも森一族の墓所があります。
【まとめ】信長の天下布武を命がけで支えた真の忠臣・森可成
戦国屈指の猛将として名を馳せた森可成は、圧倒的な武勇で「攻めの三左」と称えられただけでなく、絶望的な兵力差となった宇佐山城の戦いにおいて、主君・織田信長を救うために自らの命を捧げた希代の忠臣でした。
その壮烈な最期と崇高な忠義は信長の胸に深く刻まれ、森蘭丸をはじめとする息子たちへの絶大な寵愛、そして後の津山藩へと続く森家の繁栄へと結実しました。戦国史の転換点を陰で支えた森可成の生き様は、没後数百年の時を経た現代においても色褪せない輝きを放っています。 (出典: 森 可 成(Yahoo!ニュース))